選手としての実績が乏しい僕が水泳パーソナルコーチになれた理由




こんにちは。

水泳個人レッスンKN Swim Labの西川です。

今日は自分が水泳のパーソナルコーチとして生活ができるようになるまでと現状を紹介したいと思います。

これは本やネットで調べたことではなく、すべて自分がやってきたことです。そう、ノンフィクションwww

けっこう長いですよ。書き上げるのに3日かかりましたから。

それでは目次を




序章 大暴れの専門学校時代

高校を卒業し1年フラフラ。

卒業後も連絡を取り合っていた高校時代の同級生から、うちの学校来いよ!とのお誘いが。

もともとスポーツ大好き。小学校の卒業文集に書いた将来の夢はなんと、「水泳のコーチ」。これはコーチになったあと実家で見せられ、びっくりしたって奇跡。

そんなこともあって、早速学校見学。

1年遅れで入学するやつなんていっぱいいるよ。そんな言葉より、学校の雰囲気に大興奮。

高校を卒業し、もう部活なんかで熱い気持ちになることはないんだろうと思ってたんだけど、見学に行った学校は熱気と爽やかさ、なによりみんなギラついていたのをはっきり覚えています。

これは…

いや、絶対ここだ!

ここに入ろう。

こうして東京健康科学専門学校に入学。

東京健康科学専門学校

東京は品川、大井町にある小さな小さな体育系の専門学校。

健康体力科学科と栄養士科、もちろん健康体力科学科に入団。1年遅れのオールドルーキーの誕生である。

そうそう、健康体力科学科なんて言うとかっこいいでしょ。

エリート集団の栄養士科からは「体力科」と呼ばれてました汗

ヤツらきっと陰では体力バカって言ってたろうよ。

授業内容はスポーツ栄養学、運動生理学、解剖学、東洋医学、水泳指導論、水泳、エアロビクス、ウエイトトレーニング、スポーツ経営学、幼児体育、あと何があったっけか…

も〜、毎日授業も部活なわけで。

1.2限は水泳。これ授業だけど余裕で5000mは泳いでました。授業ですよ授業。

「こーすけ、おっせーんだよ。7秒で帰って来いって言ってんだろうが!」

もう一度言おう、授業である。

体育会系の血気盛んな19歳、暴れる…

と思いきや、先生方は9割日体出身の30代前半。逆らえるはずもなく、「無理無理まじ無理だって〜!」と叫びながらもメニューは全てこなしていました。

メニューがあるんだよね、授業に。

もうひとつ、印象に残ってる授業がウエイトトレーニング。

連日のよっこいしょういちである。

トレーニングメニューの組み立て方や、実際のトレーニング、トレーニングの指導方法を学ぶ授業。ノートを書くのは机ではなく、ストレッチマットの上。

寝っ転がっての授業。いいでしょ!

ではない。

テストがベンチプレスで体重の80%上げないと追試&レポート100枚。

私の記憶が確かなら、追試は1教科3000円。貧乏学生にそんな金はない。しかし、小さい頃から非力非力と言われ続け、その言葉から逃げまくっていた自分は、トレーニングに励んだのではなく、なんとボクサー並の大減量を決行したのである。

コーチやインストラクターを目指す学校ではあるまじき行為。

腹にサランラップを巻き、サウナスーツを着込んで当時住んでいた家の近所をひたすら走りまくった。結果、体重は1週間で6kg減。貧乏も手伝って大成功。

追試を軽々免れたのである。

当時の先生はもう呆れ果て、しかし笑いながら「こんなのお前が初めてだ!それでもルールは破ってないからいいや」って。

当たり前田のクラッカー。

いろんな規制があればその規制の中で面白いことをやってやるっていつも思ってた。

ただ、減量のために買ったサウナスーツは4000円だったってオチね…

そんな話題作りに徹し、暴れまくった専門学校。

放課後は仲間と居酒屋へ直行。

未成年??

時効って話で。

体育会系の飲み会、それはそれはもう笑いあり、涙あり、大げんかありの祭り。

それでもみんなで熱い話しして泣いたのはかなり笑えるけど、大事なことだった。これを自己正当化防衛と呼ぶ。

こんなぶっ飛んだ学生生活も気づけば卒業まであと2ヶ月。

優等生たちは大手フィットネスクラブの内定、もう少し勉強したいと鍼灸の学校に進むヤツも。

いつもつるんでいた仲間たちはフィットネス業界ではないものの就職先が決まってる。そんな中、自分は…

やべーな、いやなんとかなるだろの日々。なんか一発逆転あるだろ!って。

そこに飛び込んできたのが、事務局の職員で健康科学OBのD氏からの誘い。

「こーすけ!お前就職どうすんの?」

「いや、わかんないけど死なないようにしようかと思ってます」

「あのさ、○○不動産がやってるフィットネスクラブから、水泳できてイキがいいのがほしいって。どうする?」

「え?オレ?オレでいいの?」

「適任だろ、行けよ!」

「うん、行く。ありがとうござます」

なんとこれで大手フィットネスクラブに就職が決定したのである。真面目ではなかったけど、いつも楽しく元気に登校してよかったと。そんな21歳の春。サヨナラ勝ちである。

そんなこんなで人生で一番楽しく、一番熱い2年間を追試なし、ときにこそ勉強しまくって学年1位を奪取するという暴挙も達成し、めでたく卒業。こそ勉だってイジられるための話題作りね。

卒業証書授与式では壇上で何か面白いことをやるのが校風?であり、先生たちも容認。

マジックハンドで卒業証書をいただきました。

校長先生は壇上で「こうすけくん、毎日いろんな話題をありがとう」と言ってくださった。

なにが嬉しいって、校長先生にもこうすけくんって名前で呼ばれてることを知ったのが一番嬉しかった。

ちなみに卒業証書は泥酔の末、紛失。

1週間後、大宮だかどこかにあるJRの忘れ物預かり所で2度目の授与となりました。

これが水泳のコーチになる序章2年間のお話。

続きは↓



第1章 貧乏と葛藤と後悔の日々

専門学校卒業後3月中はアルバイトとしてフィットネスクラブの勤務開始。4月からは社員。

場所は青山一丁目。

18歳以上しか入会できないやや高級クラブ。

お客様は青山、赤坂、六本木あたりのマダムやOLさん、そして地元のおじさま方。

勤務内容はマシンジムのインストラクター、プール監視、スイムレッスン、ちょっとした事務作業。これを1時間単位のシフト制で回していく。

勤務体系は早番が9:00~18:00、中番が11:00~20:00、遅番が14:00~23:00(手当あり)。確かこんな感じだったような。

最初の頃はほとんどが遅番勤務。遅番はほんの少しの深夜手当がつくため貧乏人にはありがたかった。

当時のマネージャーは健康科学のOB。そう、大先輩である。

上司にあたるヘッドコーチは女性。確か28歳ぐらいだった気がする。給料が安いことを気にかけてくれ、社内でのアルバイトを探してくれたりと本当にお世話になった。

そうそう、社内のアルバイトっていうのは親会社である不動産のチラシ配りやお掃除宅配便という一般家庭の掃除業務。これを勤務前に週1回ぐらいのペースで。

本業はというと、まずはマシンジムのインストラクター業務が中心。

非力で体もできてない自分は、とにかくトレーニングをさせられた。当時のプロテインは大豆からできているものがほとんどでクッソまずかったのをよく覚えてる。

先輩方に限界まで追い込まれ毎日筋肉痛だったな〜。

マシンジムでは初回のお客さんにトレーニング方法を教えたり、常連の方の接客。インストラクターっていうより接客が主な仕事だった感じかな。

常連のお客さんに可愛がっていただき、勤務後は居酒屋に焼肉。これが週1回はあるので連れてってもらうことを目的に頑張っていたような…

場所柄、お客さんは豪快な方が多かった。そしてお金持ち。

赤坂の不動産屋さんの社長さんはホントに豪快で、翌日自分が休みだと知ると料亭⇨スナック⇨高級クラブ。さらに朝方4:00から焼肉というとんでもない方だった。今、自分がどれだけ酒を飲もうと、あの人には絶対敵わないだろうな。

ちなみに最後の一言は、六本木から当時住んでいた都営新宿線の森下までのタクシー料金を渡され、「早く帰れ!」。笑った笑った。

水泳のコーチになる研修も5月あたりから始まり、まずは先輩方のグループレッスンに参加し勉強。クロール入門、クロール初級、中級、水慣れ、その他の泳法も初中級があり、まずはクロール初球のレッスンを担当できるようにと。

対象者は平均年齢60歳ぐらいのおばさまがたがほとんど。定員は15人。8人入れば安泰。10人入れば人気コーチの仲間入りって感じ。研修も終え、ちょっと期待されていた自分はゴールデンタイムとも言える日曜日の11:00の枠を任されることに。

レッスン内容はキック、ストローク、呼吸、これらの基礎ドリルを全部合わせて40分程度。残りの20分をスイム。スイムは絶対にきついことをさせてはいけない。25m泳いだら帰りは歩いて戻りましょ〜なんて感じ。

正直、水泳を上達させることよりも、こちらも接客ととにかく飽きさせないためにたくさんのドリルを準備しておくことが重要だった。今考えると、自分がドリルの多いコーチになったのはこの方針のおかげだったな。

集客は順調。日曜日は9:00の開店と同時に並んでいただき、台帳に記入。常に定員いっぱいの15名。参加できない方も出るという、奇跡の人気っぷり。

当時、草野球の試合に行きたかった自分は日曜日の11:00枠は不人気で外されることを祈っていたのだが…。

そのうち、定員が常にいっぱいということで、有料プログラムをつくらないか?と会社から。作ったところで給料は変わらないのだが、普段のレッスンよりも内容の濃いプログラムを作らなければいけない。ここでもまた勉強をしなければいいけない。これはスキルアップのチャンス!ってことで快諾。

けっこう会社には儲けを出したと思う。

こうして集客力とコーチとしてしっかりとした知識、スキルを得るとパーソナルレッスンを担当させてもらえることに。当時、水泳の個人レッスンってあまりなかったのと、水泳よりもトレーニングジムやスタジオプログラムに力を入れていたクラブだったためバリバリの競泳上がりの先輩がいなかった。

22歳ぐらいで一からいろいろと作り上げていく仕事もやらせてもらえたのはホントにデカかったな。

個人レッスンも順調で月間100本は常にやらせてもらってた。速くなりたい!ってお客さんは皆無。ゆっくり綺麗に。疲れないように。クロールで25m完泳したい。平泳ぎに挑戦してみたい。

こんな感じだから勉強するにも資料なんかも限られてきちゃう。

社内では人気者でも外を見渡せば、オレはやばい。ぜんぜんコーチとしてのスキルも知識も経験もないってことに気づいてた。

専門時代の同級生たちは選手コースを担当したり、成人でもマスターズクラスを担当したり…。もちろん、成人の初心者を教える仕事も立派なコーチ業ってことは理解してた。

それでもいろんなコーチに会うと話についていけない。今のままこのクラブで終わるのは嫌だ。そんな思いが大きくなってきたのが25歳ぐらいだったかな。

トドメはその頃一緒に練習をしていた先輩の一言。「水泳のコーチって速い人(子供)を育てた人が偉いって感じありますよね!?」と愚痴をこぼしたところ、「は?そうだよ」。

慰めてもらうつもりが「は?そうだよ」の一言で片付けられてしまった。

この一言をきっかけに会社を辞める決意を。上司に相談に行ったことろフリー契約で残ったらどうだ。保証はないけど手取りは相当上がるだろと。

これはありがたかった。

こうして25歳でフリーランスのコーチとしてスタートを切ったわけです。

フリー契約の他に、マシンジムやプール監視業務を忙しい時間だけ4時間拘束で勤務する4時間社員はどうか?これは保険もつくと。給料もそこそこだったのを覚えてる。

そんないい条件をいくつも提示してくれた当時の上司には感謝してもしきれない。ただ、そのころの自分はへ〜、そんなのもあんだ。でもフリーの方が稼げそうだからフリーで!いつも通り、無計画でフリーになったとさ。



第2章 1年限定の営業マン

フリーの水泳コーチとなった自分は、同じ会社の渋谷店、六本木店でもレッスンを担当。赤坂店勤務がほとんどだったため、新鮮そのものだった。

赤坂店は地下にあり、光がまったく入らないプール。

渋谷は地下にあるものの吹き抜けになっているため、眩しいぐらい。さらに同じビルには大手の芸能会社も入ってるため、有名人がたくさん。F山さん、A野さん、K谷さん、女性だとRNちゃんなんかもしょっちゅう来てた。

なんかイケてるインストラクターなんて勝手に勘違いしてたのをよく覚えてるわ。

収入も増え、環境も変わり毎日楽しくやってたのですが、本来の目的である選手に関わりたいということは何ら解決できてない。人間って怖いもので収入が増えたり、いい環境で仕事ができるようになると本来の目的や夢を忘れてしまう。まあ楽しいからいいか!って感じで。いや。「人間って怖い」って表現はおかしいか。

自分自身の弱さってのが正解だね。

やっぱり収入よりも当初の目的を達成させたいって思いが復活。そこで取った行動が今でも謎の1年限定の営業マンである。フィットネス業界のことしか知らずにフリーではなく完全独立は良くない。一度一般企業での仕事も経験しておかなければ。っていう。アホが考えそうなことでしょ。

行動は早い。

当時NTTのINDN回線ってあったの覚えてるかな?ISDNであたりマウス♪なんてCMでお馴染みだったやつ。

この回線を売る営業マンを1年限定で始めたのです。そう会社員。スーツ着てね。営業の知識もなければ、商品知識もない。入った会社は漫画のような世界、朝礼で営業成績トップを表彰したり、グラフが張り出してあり、営業成績が悪い人は全社員の前で怒られたり。

こりゃまずいところに入ったな。3日で逃げ出すかな。

そんなことも頭によぎったんだけど、ここで成績を残せば1人でやり始めたときに自信がつくぞ、とりあえず1年だ、やってみよう。

ってわけで2ヶ月、3ヶ月…

ちょっと自分でもよく分からないんだけど、社内で1番の営業成績。う〜ん、これだけは何がよかったのか全く分からない。

営業方法は今でこそ少なくなった訪問型。そう、飛び込み営業。けっこう勇気いるんだよね〜。罵声を浴びせられることも何回もあったけど、そんなもんだろって感じでさほど気にならなかった。一番良かったのは1年で辞めるって常に思ってたからだろうな。

この時期、勉強してたのはISDN回線ではなく、もちろん水泳のこと。

近所のルネサンスに会員として入会して、泳ぎながら選手コースやマスターズクラスを盗み見。ホントやることせこいよね。

そんなこんなで、そろそろ独立してからのことを考えなきゃ。どうやって集客するんだ?ホームページ?どうやって作るんだ?ここで営業会社が役に立った。

パソコンやネットのスペシャリストはたくさんいる会社。いろいろ教えてもらいホームページビルダーってソフトを購入。秘密裏にホームページも作り始めたんです。

4月に入社してその年の年末あたり。

前年までお世話になったフィットネスクラブから連絡が。人が足りないから今の会社に内緒で週1本でもいいからアルバイトをしてくれないか?って。

内緒ってのもなんだから、営業会社の上司に相談したところ休日ならいいよ!ってことで電撃復帰。

3月末まで謎の営業成績トップを継続し、円満退社。

4月からは夢の個人事業主として頑張るぞ!

が、しかしそれは地獄の始まりだった…



第3章 貧乏貧乏日々貧乏

26歳。再度お世話になっていたフィットネスクラブでフリー契約をしてもらうことに。

以前のようにたくさんレッスンをするのではなく、週2回と決めその他は自分の勉強と作ったホームページで募集をかけてみようと。フィットネスクラブでは人気コーチでも、外に出たらなんの実績もないコーチに人が集められるはずもなく、新規のお客様は皆無。

フィットネスクラブでのレッスンを増やせば安泰なんだけど、それをやっちゃうと勉強する時間もなくまた同じことになる。対象者はまた成人の方ばかりになるので、進展もない。

ここは安定ではなく勝負に出るところだと決意し、毎日水泳の本を読み、近所のプールで実践。多分この頃が一番泳いでたな。お金はそこを尽きる寸前。さすがにこの年で親にお金を借りるわけにもいかなく、深夜のコンビニ、引っ越し、冷凍庫の中での物流作業といろんなことをやったな。

どこに行っても必ずいる、アルバイトリーダー。

そのアルバイトを長く続けて、バイトのまとめ役になる人がいるのね。あれには絶対にならない。なったら終わりだ。来る日も来る日もバイトをやめることだけを考えてた。

そんな生活も1年経つと、ホームページから新規のお客さんが徐々に増え始める。

27歳あたりでやっと水泳だけで生活ができるようになったって感じかな。それもこの時は個人事業主ではあるもののフィットネスクラブでレッスンをしていたため、自分の中では完全に1人でやるという目標には達成していなかった。

こうして20代後半は完全に下積みって感じ。

これが功を奏してか、30代で…

第4章 調子ぶっこ期

30歳。ついにお世話になったフィットネスクラブを完全に辞め、独立。これが自分の中で本当の独立って感じだった。

もう何の後ろ盾もない状況。

日々これスリリング。

それでもお昼は成人の方の個人レッスン。夕方から夜は子供の個人レッスンと毎日プールに入れる状況に。

ここからはホームページでというより、レッスンを見ていたから声をかけられたり、紹介で人が増えて行った感じ。収入は安定するどころか右肩上がり。

そして念願の選手の個人レッスンも始まる。

こちらもクチコミで徐々に増えて行き、ついにジュニアオリンピックに出場する選手が誕生。今から11年前の話だから34歳の時か。そのとき初めてJOを切ってくれた選手はこの春大学4年生。名門大学の水泳部でバリバリ頑張ってます。

今でも連絡を取り合い、将来はなにか手伝ってもらおうと勝手に考えています。

ここで謙虚に生きるような人間じゃない私。まさに調子ぶっこきの絶好調。男の夢である車を購入。

ジープチェロキー。

 

エコ化が進む時代に逆行し、リッター6km弱のまさにエゴカー。

さらにバイクはマジェスティ。

もうやりたい放題である。

苦労した人って自分が稼いだお金を大切に使うと思うんだけど、真逆。稼いだら使う。奢る。後悔はしてないが、なかなかバカな生活をしていたと反省はしている。



第5章 ついに爆発

区民プールのコースを借りての団体指導。江東区民サークルも任されることに。

任された時は20人弱。色々考えると赤字だったけど、そこはもうなんとかなるでしょ精神。その頃一緒に頑張ってくれたスタッフと2人で公園でチラシを配ったり、ショッピングモールで怒られるのを承知でチラシ撒き。

怒られるまでやろう!って話ね。

30分と保たずに退場〜。

初めからわかってることなので、謝って退散。

そんなこんなも地道にやってると、あれよあれよ会員は70人。何が正しくて何がうまく行ったのかは不明。こういうのも一般的な企業ならしっかりと分析するんだろうけど、自分らはよかったよかったで焼肉三昧。

ときを同じくして、念願のジュニアオリンピック優勝選手のお手伝い。

翌年には2人目。2022年までに4人のジュニアオリンピック金メダリストのフォーム形成に携わらせていただきました(ここは謙虚に)。

これはもう、パーソナルコーチとしての夢だったことなので、大号泣。

けっこう苦労したな。

よく、そんなことも一瞬で吹き飛ぶ喜びなんて言いますが、なんかもうどうでもいいやってなっちゃいましたね。あ、やる気がなくなるとかじゃなく、いい意味でね。

このとき、スタッフは7人ほど抱える自分としては大所帯の集団になってました。R_FORCE(The Resultant Force)合力って意味の団体名。この名前も気に入ってたし、このままずっと続けていくんだろうな〜なんて思ってた。

第6章 新たな企み

R_FORCEとしてずっとやって行くのかな〜なんて思ってのですが、そのころのスタッフとNPO法人を立ち上げることに。

3人で立ち上げたNPOは順調だったものの、自分は2年で退社。

いろいろやって行くと想像と違かったな〜とかってよくあるでしょ。そんな感じ。

もちろん、そのNPO法人は今でもしっかりと活動していて、交友もあります。

退社後はまた1人でパーソナルレッスンのみをやってます。数年前までは1ヶ月に120本ほどのパーソナルをやっていましたが、今は平日のレッスンを減らし、またいろいろと勉強、それから新たな試みも。

この辺りはまたしっかりと形になってきたときに書きたいと思ってますが、やはりワクワクして面白いことをやろうと思ってます。

15年前と同じやり方では古いとかではなく、多分やっていけない状況、環境になっています。この辺りもしっかり受け入れていこう。



まとめ

結局、若い頃からたくさんの先輩方に可愛がっていただき、それなりに苦労して、それなりに努力して。

そんなことをやってると、今度は若い子たちが助けてくれるようになる。

もしこれから水泳のパーソナルコーチを目指す人がこの記事を読んでくれてたら、こんな超遠回りの道も悪くないと思うよって。これは偉そうなアドバイスなんかじゃなく、すべて自分が経験してきた話。

この仕事がもっともっと世間に、社会的に認めてもらえたら最高ですね〜ってお話でした。



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